ほんもんぶつりゅうしゅう

信遠寺 喜多方別院


2014-04-02 20:45

喜多方別院の歴史

喜多方別院は、村田ヒサ女の御奉公なくして存在しない寺院である。彼女は明治8年6月15日福岡県門司市生まれ。懐中御本尊をお供されたことからご信心が始まる。その後、日歓上人との出会い(当時は清歓師)御奉公にお供させていただくようになる。その後、夫 勝三氏の入信。夫婦そろっての御奉公が始まる。村田ヒサさんのお助行の御奉公はめざましく、現証の御利益でご弘通は伸びていくのである。

喜多方の御奉公は、そんな村田ヒサさんが戦争で疎開しなければならなくなり、福島県西会津町の野沢に来てからのことである。当時はまだご信者は3軒のみであった。彼女は、毎日家をとび出し農家まわりをされた。また、野沢を基点に喜多方方面へも足を運び、当時4軒しかなかった喜多方の信者数を分組できるまで増やされたのである。当時喜多方には親会場はなく、教化されたご信者の力で豊川に親会場ができたのである。協力者も増え、彼女は、山都・五泉へも出かけられたのである。彼女の熱心な折伏により山都に4軒・五泉に10軒ほど教化ができる。そして村松まで足を運ぶのである。頼れる人は誰でも頼り、噂話にあそこに病人がいると聞けば、どこへでもとんでいき御奉公されたのである。お看経の強さはピカイチであった。数え切れない現証は彼女のお看経の強さによるものであり、根気強さも持ち合わせていたのである。彼女の最晩年の昭和45年10月喜多方別院の開筵式が奉修された。当時わずか4軒しかなかったご信者が30数戸のご信者になっていたのである。

昭和46年1月29日帰寂 行年 96歳 法号 本持院法勲妙経日久大姉 教化の神様と讃えられたそうだ。 柴崎日益上人(盛岡・広宣寺先住)の菩提親。 

(エピソード)

(信遠寺初代ご住職・吉村正貞師〈秋嶺院日晴上人〉)いわく   教化になって病気が回復した農家の人が何かの理由で退転すると言ってきたので、何とかもう一度折伏をしてご信心をたもたせてきますと、汽車に乗ってでかけられたそうだ。そして根気強さとお看経の強さで、結果的に「ご信心させていただきます」と随喜してご信心を続けることになったそうだ。吉村上人は「村田さんの熱意には頭が下がる」とおっしゃったそうだ。                                                                 

                                                                              伝記 村田ヒサ女の生涯より