ほんもんぶつりゅうしゅう

2020-11-01 11:31

11月1日の隆宣寺日記

「人に与えない者は、いずれ人から何も貰えなくなる。欲しがるばかりの奴は、結局何も持ってないのと同じ。自分では何も生み出せないから。」『鬼滅の刃』第146話
 
日本には古くから「情けは人の為ならず」という言葉があります。人に情けをかけることは、その人の為だけになるのではなく、巡り巡って、自分自身のためにもなる、お互いに幸せになっていける。まさに、仏様の教えが根底に流れている言葉、人生の教訓です。やはり、日本は仏教国であり、私達のDNAには仏教が根付いていると言えます。
 
しかし、残念なことに、最近では「情けは人の為ならず」という言葉を、人に情けをかえるのは、その人の為にならない、やめといた方がいい、という風に間違った理解をしている人が増えているのだとか。それだけ仏教的価値観、考え方、生き方が希薄になりつつあるのかと思うと、仏教を通じて「みんなが幸せになれる道」を、もっと伝えていかないといけません。
 
冒頭に紹介した『鬼滅の刃』のセリフは、まさに核心をついています。人は一人では生きていけない、この世に存在することすらできません。衣食住があるのも、仕事があり収入があるのも、全て他者があってこそ。自分一人で生み出したもの、作り出したものは何一つありません。だからこそ、お互いに支え合い、補い合い、譲り合うことが必要不可欠。
 
にもかかわらず、自分のことしか考えられない、自分のことばかり前面に出す。自分を受け入れる人こそ「善」であり、否定・拒絶する人は「悪」である。そんな生き方が通用する訳もなく、何かと不平不満ばかりが湧いてきます。そうやって何も譲らない、何も与えようとしない、そんな生き方をしていると、一時は満たされたとしても、最終的に自分の手元には何も残らないのです。
 
与えるからこそ与えてもらえる、譲るからこそ譲ってもらえる。それは何も物質的なもの、経済的なものばかりではありません。仏教では「無財の七施」と言って、私達の《行為》も施しになると教えます。たとえば、笑顔で接すること、あたたかい眼差しを向けること、優しく語りかけることなど。やろうと思えば、誰にでもできる最も基本的な《施し》です。
 
そんな基本的な《施し》ができずにいて、どうして幸せになっていくことができるでしょうか。自分の欲求ばかりで、何か不平不満をこぼして、笑顔ひとつすら施せないような人が、誰かから理解されたり、求められたり、愛されたりするでしょうか。向こうへ押したブランコは手前に戻ってきますが、手前に引っ張ったブランコは向こうへ行きます。幸せも一緒です。まずは「誰かのために」という思いこそ、自分自身を幸せへと導くのです。
 
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