ほんもんぶつりゅうしゅう

2020-09-02 09:29

9月2日の隆宣寺日記

「下手な鉄砲も数撃てば当たる」
下手でも数多く試みれば、まぐれ当たりで成功することもある…という意味です。たとえば、100回、1000回と試みて、成果が1つだった場合、ハズレの99回、999回は、どう評価されるのでしょうか。本当に下手くそで、ただ闇雲にやっただけであれば評価のしようがありません。それどころか、そんな99回、999回から生まれる悪影響が心配です。そうなると、たった1つの成果では全く割りに合わないことになってしまいます。つまり、そういうやり方で成果を得ようとするのは、そもそも間違いだということです。
 
たとえば、お寺には毎日のように電話回線、電気料金に関する電話がかかってきます。こういった仕事は、それこそ数をこなさないと、なかなか成果を得られません。電話をする側は、本当に根気よく、辛抱強く、仕事に打ち込むことが求められます。しかし、その「根気よく」「辛抱強く」が欠けてしまった、ぞんざいな電話が多くあります。きっと何度も断られて、時には叱られたり、怒鳴られたりして、ボロボロなのかもしれません。それでも、丁寧な仕事を心がけるからこそ、成果がついてくる訳で、本当に下手な仕事では、成果は出ないばかりか、悪い評判がたってしまいます。
 
そう思うと「下手な鉄砲も数撃てば当たる」という言葉は上手に受け止めないといけません。下手は下手なにり「上手になろう!」という思いであったり、日々の鍛錬であったりがあってこそ「下手な鉄砲も数撃てば当たる」という言葉は成り立つ訳で、それでこそ100回、1000回と数をこなしていくことに価値が出てくる。その中から1つ、2つと《まぐれ当たり》のように出てくる成果にも価値が出てくる。そして《ハズレ》の99回、999回ですら評価されるようになってきます。全く同じ回数の努力でも、同じ下手であっても、その中身、質によって全く別物になるのです。
 
これは信仰の世界、ご信心においても同じことが言えます。まだまだ未熟であっても、きちんと教えをいただいて、その通りにさせていただこう!という真っ直ぐな思い、実際のチャレンジがあれば、未熟なりの成果が必ずついてきます。反対に、中途半端、曖昧な知識、経験を過信して、それこそ「下手な鉄砲」を撃とうものなら、成果が出ないばかりか、その言動から思いがけない悪影響が自分や周囲に及ぶことがあります。下手であること、未熟であることは、なに一つ「罪なこと」ではありません。しかし、そのことを弁えず、正しい努力を怠ることは「罪なこと」であると言るのです。是非、お寺で正しい努力の仕方を学んで、身につけていきましょう!
 
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