ほんもんぶつりゅうしゅう

2020-12-08 09:47

12月8日の隆宣寺日記

組織における物事の基準というのは、客観的で、合理的でなければなりません。そう思うと、誰かの個人的な考え方や価値観というのは基準とはなり得ません。当然、個人の感情や趣味嗜好などを基準にするなど、あってはならない話です。もし、それを組織における物事の基準とするならば、それは独裁者の思考回路。個人の都合や思いで物事が判断されれば、そこに公平性は無く偏りしかありません。

 

これは仏教を信仰する上においても同じことが言えます。仏様はお亡くなりになる直前に『涅槃経(ねはんぎょう)』という御経を説かれて「依法不依人(えほうふえにん)」と私達に教えてくださっています。これは仏様がいなくなった後、一体なにを基準にして信心修行すべきかを仰ったもので「今後は仏が説いた法、つまり《教え》を基準にして信心修行に励みなさい」という意味。

 

仏教とは、仏様が悟られた《この世の真理》を信仰するというものです。ただ、その教えを私達は自分たちで悟ることは出来ず、全く知る由もありません。よって、仏様がいらっしゃった時代は、仏様から教えていただくことになります。そして、仏様がいない時代は、主に僧侶が教えを学び、人々に伝えることになります。そうやって「個人的な考え方や価値観を基準に信心修行してはいけない」と仰ったのです。

 

しかしながら、私達人間は感情の生き物です。どうしても何かあるたびに色んな感情がわき、自分の考えを基準に思いを巡らせてしまいます。これは、ある種「人間らしさ」なのかもしれませんが、ここを克服していくのが仏道修行です。そもそも「仏に成る」ということは「人間の枠を越える」ということを意味しています。よって、いつまでも個人的な考え方や価値観、感情に執着していては永遠に仏には成れません。

 

仏様から教えていただく通りに信心修行させていただく中で、色々と思うところがあったとしても、そのたびに「仏様の教え」という定規、物差しを基準にして、自分の心を変えていくのです。その際、すぐには納得できない、腑に落ちない、合点がいかないこともあると思います。でも、それは私達がまだまだ「人間の枠」にとどまっている証拠で、信心修行の真っ只中である証拠。そこで「我を通そうとする」のか、それとも「仏様の教え通りにする」のかが大きな分かれ道なのです。

 

「仏に成る」とは、その名の通り「仏様と同じになる」ということです。つまり「仏様の教え」を基準に生きていくことであり、「仏様の教え」が人生に溶け込むということ。だからと言って、人それぞれの個性や、その人らしさが失われることはありません。むしろ、その個性や、その人らしさが、より鮮明になって、より洗練されていきます。「依法不依人」という教えは、まさに仏様から私達に対する遺言のような教えなのです。

 

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