ほんもんぶつりゅうしゅう

2020-08-28 10:22

8月28日の隆宣寺日記

事業にしても家計にしても、利益を追求することは大切なことです。でも、それ以上に大切なこと、守るべきことがあります。それは「人の道」であり、同じ人間として守るべきルールです。中国の孔子や孟子も、そういった言葉を遺しています。
「君子(くんし)は義に喩(さと)り、小人(しょうじん)は利に喩る。」(孔子)
「義を先にして、利を後にす。」(孟子)
これらの言葉を社是や社訓にしたり、座右の銘にしている人も多いようです。
 
利益を出そうとして算盤(そろばん)を弾き、電卓やパソコンのキーボードをたたき始めると、どうしても「プラスなら得、マイナスなら損」という考え方にハマってしまいやすくなります。もちろん、数字を見る、数字を把握する、数字をコントロールすることは大切なことですが、そこには数値化されていない、可視化されていない無数の要素が含まれています。それは「人間」を土台にした信頼や安心、それこそ温もりだとか、優しさだとか。どんなに優れた人間であっても、たった1人で仕事ができる人はいません。必ず自分以外の誰かとの繋がりの中で、仕事は成り立っていくものです。
 
その人と人との間に流れているのは「この人は道に反しない」という暗黙の合意です。それは契約書を交わすようなレベルの話ではなく、人としての信頼、信用。この社会をつくっている人と人が、お互いに誠意を持って取り組むというルール。ちなみに、このルールを破ることを法律用語では「信義則違反」と言います。「そんなこと契約条項に入ってない!」という主張は認められません。この期に及んで、そんなことを言おうものなら、もはやルール違反ではなくルール無視。いわば「自分の利益しか頭にない人間」だと、自分で宣言しているようなものです。
 
つまり「義を喩(さと)る」ことも「義を先にする」ことも、実は特別なことではなくて、人としての最低条件であり、この社会で一緒に生きていく上での大前提だと言えるのです。ただ、どんなに高尚な理念であったとしても、それだけでは頓挫します。つまり、生き残れるのは「正しい利益追求」を心がけている人(企業)のみです。
「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」(二宮尊徳)
二宮尊徳(にのみや・そんとく)が残した、この言葉に全てが集約されいるように感じます。
 
これは、お寺でも同じことが言えますが、お寺は単なる「義」ではなく《信》です。つまり、仏様が悟られた教え、この世の真理が基準となります。これが「義」と重なる部分もありますが、そうではない部分もあります。いわば「刑法には抵触しないけれども、仏法には抵触する」ということがあるのです。よって《信》を正しく学び、身につけ、守り続けることで、自然と「義」も守れるようになります。そうすれば、自然と「利」もついてくる、更に成果が残せるようになっていけるのです。「義」と「利」そして《信》を極められるように、是非、仏教のある人生を歩みましょう♪
 
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