ほんもんぶつりゅうしゅう

2020-08-23 11:03

8月23日の隆宣寺日記

「人は、生きてきたようにしか死ねない」

このように仰るのは、終末医療に携わる小野寺時夫先生。今までに看取ってきた患者さんは、2500人を超えます。小野寺先生は、このようにも仰っています。「人は死に直面しても、人格や考え方が変わることはなく、急に信仰心が湧いたり、哲学的思考力が強くなったり、善人になったり、悪人になったりする事はないのです」

 

つまり、ワガママな人はずっとワガママなまま。すぐ人のせいにする人は、最後の最後まで人のせいにする。「こんな病気になったのは、あの人のせい!私は何も悪くない!」お金にウルサイ人は、死ぬ間際になっても病院の個室料金を気になさる。仏教的に考えると、そういった言葉や行動は、その人の心があらわれたものであり、その心の終着点、生き様の終着点として、その人の死に様や死顔にもあらわれるものです。

 

先日、ご信者さんのお葬式をお勤めしました。行年95歳、長年にわたり隆宣寺で御奉公くださった方です。誰にも優しく、常に穏やかで、感謝の言葉を絶やさない。その方が、人のことを悪く言ってる所を見聞きしたことはありませんし、周りの人が、その人を悪く言ってる所も見聞きしたことはありません。それは決して八方美人という訳ではなく、みんなから愛された素晴らしい人格者でした。

 

臨終をお迎えになったのは自宅で、時間は夜中の1時頃でした。一緒に暮らしていた娘さん云く「いつもなら完全に寝ている時間でした」とのこと。どことなく、いつもと違う感じがしたので、経過を観察していたところ、血圧が測れなくなり、急遽、訪問看護の方に連絡を取ったとのことでした。少しずつ臨終に近づきつつあることがわかり、娘さんはずっと寄り添いました。そして、娘さんが手をさする中で、スーッと息を引き取られたのです。

 

その際、最期に「あっ」と仰ったんだそうです。娘さんは、その一言が何だったのか、わからずにいたのですが、そのことを身近なご信者さんにお話ししたところ、こんな風に声をかけてもらいました。「〇〇さん、それはアナタに『ありがとう』って言おうとしたんじゃない?」その一言で、娘さんは納得しましたし、その話を聞いた誰もが納得しました。なぜなら、いつも「ありがとう!」「おおきに!」と言っていた方だからです。

 

ずっと側について、お世話をしてくれた我が娘に、最後の最後まで手をさすってくれる娘に、最後の力を振り絞って「ありがとう」を言おうとした…本当に、その方らしい最期です。臨終の知らせを受けて、ご自宅へ伺うと、呼べば起き上がりそうなお姿。納棺の時には湯灌とお化粧が施されて、シワ一つないキレイなお顔。弔問に訪れた方々も、みんながみんな「キレイなお顔」と口にしました。本当に「ありがたい」という一言に尽きます。

 

ちなみに、冒頭ご紹介した小野寺先生は「人は急に変わったりしない」と仰いましたが、本門佛立宗のご信者さん達は少し違う、いや、全然違うと言っても過言ではありません。どんなに寡黙な人だったとしても、憎まれ口の多かった人だったとしても、臨終が近くなるにつれて、家族や周りの方への感謝の言葉、反省の弁などが聞かれるようになります。最後の最後で、きちんと心が整い、言葉や行動が整うのは、やはりご信心の功徳によるもの。私達にとって最高の死に化粧、我が身を飾るのは、ご信心の功徳だと改めて確信する次第です。

 

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