ほんもんぶつりゅうしゅう

2021-01-05 10:28

1月5日の「毎日ぶっきょう」

先生や師匠に教えてもらうためには、先生や師匠に「仕える」ということが必要です。教える側である先生や師匠としても、単にマニュアルやテキストを渡すだけで教えの全てが伝えられるのであれば、わざわざ生徒や弟子に仕えてもらう必要はありません。やはり言葉や文字だけでは伝えられない、伝えきれない部分も含めて教え切るには、先生や師匠に「仕える」という姿勢、心がけが無くてはならないのです。

 

ただ、教える側も教わる側も、一人の人間であることには違いありません。そこには喜怒哀楽といった感情があり、好き嫌いや価値観の違いもあります。しかし、それをお互いに辛抱して、我を出さずに「教え・教わる」という関係を築く。つまり「仕える」というのは、生徒・弟子といった《教わる側》だけの辛抱ではなく、先生・師匠といった《教える側》の辛抱もあってこそ成立する関係性なのです。

 

そんなことなど全くわからずに、未熟者である《教わる側》は愚痴をこぼしたり、泣き言を言ったり。それこそ「自分だけが大変な目に遭ってる」などと、とんでもない勘違いをする場合があります。そういう中で、結果的に先生・師匠のもとから去っていく人も少なくありません。しかし、それをやってしまうと次第にクセとなり、ますます辛抱できない人間になってしまいます。そうなると結果的に誰に仕えることができず、何一つ身につけられない「根無し草」となるのが関の山です。

 

先生や師匠と呼ばれる《教える側》の方々は、そういったことも含めて、全てを受け止め、考えています。スムーズに成長する生徒・弟子よりも、むしろ愚痴をこぼしたり、問題を起こしたりする生徒・弟子を思い、全ての問題を自分の問題であると受け止め「どうすればいいだろうか」と、いつだって模索しています。つまり、誰よりも辛抱しているのは《教える側》である先生や師匠であることを忘れてはいけません。もちろん、未熟な生徒・弟子が、そこに気づけないことも先生や師匠は十分心得ておられます。

 

そんな状況で先生や師匠は、生徒や弟子が「仕える」のを黙って受け止めてくださっているのです。わざわざ「俺だって辛抱してるんだ!」なんてことを、先生や師匠は口に出すことはありません。そういう大きな器、懐の深さの中で、先生・師匠に「仕える」ことができている、それが師弟関係です。別に生徒や弟子に仕えてもらわなくても、先生・師匠は自分一人で何でもできてしまいます。でも、それでは生徒・弟子が育たないのを知っているからこそ「仕える」ことを許してくださっているのです。

 

そう思えば、お仕えできる先生・師匠がいることは、生徒・弟子として、この上なく有難いことなのです。昨日もお話ししましたが、まず《教わる側》はトコトン教わる姿勢を守り、貫く、徹底する、辛抱する。その道を極めるためには、そうやって先生・師匠に「仕える」ことが必要不可欠、基本中の「き」です。生徒・弟子として思うところは多々あろうかと思いますが、必ず納得できる日がやってきます。そうなった時、今度は私達自身が先生・師匠となり《教わる側》から《教える側》となっていくのです。

   

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