ほんもんぶつりゅうしゅう

2020-08-29 11:38

8月29日の隆宣寺日記

コップに満タンの水が入っている場合、そこに何を注いでも溢れるばかりで、ほとんどコップにはたまりません。それと同じで、心を入れ替えたい、自分を変えたいと思っている人が、どんなに色んな人と出会い、色んな教えを受け、色んな経験をしたとしても、心の中が、これまでの自分で満タンの場合、そのほとんどがこぼれてしまいます。つまり、自分自身の「我(が)」こそが、最大の障壁だと言えるのです。
 
人は「これまでの自分を維持したい」という思いが必ずあります。どんなにネガティヴな一面であったとしても、それを変えること自体に抵抗を感じます。「こんな自分がイヤで、大嫌いで、自分を変えたいのに、どうしても変えられない」こんなセリフをドラマなどで耳にしますが、これが私達人間の心理ということ。そう思うと「我(が)」を出さない、引っ込めるというのは、簡単なことではありません。つまり、生半可な気持ちでは、自分自身を変えることはできないということです。
 
これは、ご信心においても同じことが言えます。仏教を信仰するとは、仏様が悟られた《この世に真理》を教わるということ。いわば、自分では絶対に悟れないものを、仏様から教えていただくということです。ということは、これまでの自分を一旦、横に置いて、それこそ心を空っぽにして、仏様の教えを聞き、聞いた通りに実践していくのが一番の道ということになります。「我(が)」を出せば出すほど、仏様の教えは心には残らず、こぼれ落ちていくばかりです。
 
そこで大切なのが「南無妙法蓮華経」の御本尊を見つめて「南無妙法蓮華経」と唱えること。私達の心は常に動いていて、止まることはないので、心を空っぽにするのは至難の業(わざ)です。しかし、しっかりと御本尊を見つめ、「南無妙法蓮華経」と唱え、耳で聞き、心に納めていくと、次第に乱れた心は整い始め、バラバラになっていた心は1つになっていきます。すると、私達の心は仏様と一心同体になり、教えがスーッと入ってくるようになります。つまり、仏教は決して学問ではなく、どこまでも信仰、信心だということです。
 
どんなに頭でわかってるつもり、知ってるつもりになったとしても、心という器にたまっていく、心に浸透していくことがなければ、絶対に人生には根づきませんし、その人の生き方が変わることもありません。心と体で覚える、心と体に身につけていくのが、正真正銘の仏教です。インターネットで調べるより、本屋であれこれ読みあさるより、お寺で教えを聞き、みんなと一緒に実践するのが最も確実で、最も効果的です♪
 
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