ほんもんぶつりゅうしゅう

2020-09-03 10:13

9月3日の隆宣寺日記

「稼ぐに追いつく貧乏なし」という諺があります。辞書をひくと…常に精を出して働けば貧乏に苦しむことはない、一生懸命に働けば貧乏で困るようなことはない、という意味であると書かれてあります。確かに、その通りだと思います。
 
ただ、これは「常に精を出して働けば」「一生懸命に働けば」という条件付きです。そして、実際問題として、この条件がダメになるケースがあります。病気をしたり、怪我をしたり、事故や事故、自然災害に遭ったり。きっと誰もが注意をしているし、予防策も講じているはずです。中には、用心深く常に「できること」を最大限やっている人もあると思います。それでも防げないこともあれば、望んでいない結末になることもあるのです。
 
仏教は因縁を説きますので、そういった現実には根拠があると教えます。それは私達自身が作り出した《原因》と、私達を取り巻く環境である《ご縁》です。ほんの小さな火種でも、それが《ご縁》によって暗闇を照らす明かりとなることもあれば、全てを焼き尽くす大火事になってしまうこともあります。私達が認識できていること、わかっていることなんて、全体のほんの僅かでしかありません。しかも、その大半が私達の主観であり、自分の思い込み、自分流の価値判断なのです。
 
つまり、私達の頭ではわからない、目では見えないレベルで色んな物事が動いていて、刻一刻と、リアルタイムで、人生の舵が切られているのです。折角、あと一歩で幸せという目的地であったのに、それとは知らずに舵を切ってることもあれば、大ピンチに陥るギリギリ一歩手前で、知らずのうちに舵を切っていることだってあります。これは私達人間の知る由もない次元の話で、思いがけない出来事に喜怒哀楽、一喜一憂する…そして、それを都合よく「福の神が舞い込んだ」とか「貧乏神にたたられた」などと言う訳です。
 
つまり、とんでもない幸運も、とんでもない不運も、外部の第三者がもたらすものではありません。そのキッカケとなる《ご縁》となることはあっても、その大本である《原因》は原則として自分であり、もちろん、どういった《ご縁》を引き寄せて、どのように結びつくかを左右するのも、やはり自分です。そして、これは自力(じりき)で、どうこうできる話ではありません。人間の知識や技術は素晴らしいですが、それは同じ人間同士で言い合っているだけの話です。もっと大きな世界観で考えれば、まだまだ不十分で、如何にもならないことは山のようにあります。
 
その「どうにもならないこと」を、正しく認識して、対処する方法を仏様は教えてくださっています。それは全ての始まりである《自分》を、どのように受け止め、どのように成長させていくかということ。私達の過去をさかのぼれば無数の生涯があり、そこには「善い自分」もいれば「悪い自分」もいます。それらの総決算として《今の自分》があり《今の人生》が刻一刻と築かれているのです。大事なことは【刻一刻】という所で、これは「人生は常に変化している」ということ意味しています。つまり、変わらない人生もなければ、変えられない人生も無いということです。
 
そして、それを「可能な限り良い方向へ変えていこう!」というのが仏教的な考え方、生き方です。現状が「-100」ならば、せめて半分の「-50」に、出来ることなら「±0」にできないか。いやいや、なんとかして「+10」「+20」にしていこうじゃないか!ということです。もちろん、それを大半の方は《自力》で「なんとかしよう!」と血の滲むような努力をされています。でも、その《自力》だけではなく、ご信心の力を加えていくことによって、思いも寄らない結果、結末を導き出すことが出来るようになっていくのです。
 
もちろん、これは言葉で語り尽くせるものではありませんし、到底、話を聞いただけでは理解もできないでしょうし、納得もいかないと思います。実際、私自身も子供の頃から色んな話を聞き、教えられてきましたが、理解し始めた時、納得し始めた時というのは、実際にやってみてからの話です。つまり、自分が変わらなければ何も変わらないので、何も理解できないし納得できないということ。なので、半信半疑で当たり前、必要なのは「変わりたい」「変えたい」という思い、願いだけです。是非、その思い、願いだけを持って、お寺に足を運んでもらえたらと思います♪
 
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