ほんもんぶつりゅうしゅう
2017年01月02日
青年教務会樺太戦没者慰霊ご奉公渡航記4
お計らいの連続でご奉公を成就 ご支援いただいた全ての方に感謝
第2支庁 圓妙寺 御牧現義

樺太戦没者慰霊ご奉公渡航記、いよいよ最終日までの行程のご報告です。

●最終日までの行程
 真岡での法要の後、バスにて3時間の行程を経て13時30分から落合(ドリンスク)にて一座法要を奉修しました。落合は日本時代に富士製紙(後の王子製紙)の工場もあり発展していた中、樺太本門佛立講・落合親会場が存在した場所です。
昭和元年に開かれ11年には10周年記念法要も奉修されましたが、常在していたお教務が体調衰弱のため昭和13年、御遷化になった後は閉鎖となりました。
法要時は快晴で暑いほどでした。お塔婆を埋める穴掘り班は小西師と野本師、汗だくになってのご奉公の後、お塔婆やお供えを埋置させていただきました。
 法要後、真岡と同じく落合の海岸でも唱題の中でお供とお塔婆を海に流しました。このあとは移動中、恵須(えす)取(とる)(ウグレゴルスク)のレストランで夕食。ロシア人の若い方々と記念撮影しました。塔(とう)路(ろ)(シャフチョールスク)のこの日のホテルまで8時間の行程です。
 19日は早朝、恵須取に向かい、8時30分から法要です。恵須取は真岡と並ぶ樺太西海岸の中心都市で、王子製紙の工場と炭鉱がありました。
ここでは昭和20年8月17日、旧ソ連兵の接近を知った太平炭鉱病院の看護婦23人が武道沢の山中でニレの大木を囲み、劇薬を服用、手首を切るなどして集団自決を図り、6人が死亡した「太平炭鉱病院看護婦集団自決事件」が起こりました。恵須取の慰霊碑は丘の上、海を見渡す絶景の中に建っており、朝の光の眩しい中でのお看経でした。
 法要後、次の目的地へ向かいます。今まで不明であった事件の現場「ニレの大木」の位置を、今回、調査を依頼し、何と出発2日前に判明したのです。行程になかったものの、急遽ニレの木の前での法要を決定しました。
道のりは未舗装の悪路を行かねばならず、恵須取市役所前で軍用車両のような特殊な車に乗り換えて出発。大変な揺れに耐えて到着し車を降りるも、また道無き道…。ここを徒歩にて向かいます。
森の中、行く手を遮る川に、私たちを橋渡しするためかのごとく大木が倒れており、そこを渡ってニレの木の前にて法要を奉修いたしました。この後、翌日に向けて敷(しす)香(か)(ポロナイスク)へ移動、約10時間の行程でした。
 20日は7時30分から古屯(ことん)(ポペジノ)及び北緯50度線付近での法要でした。古屯は今回の樺太戦没者慰霊ご奉公における最終目的地であり、最も遠方の地です。かつての日ソ国境線付近に位置し、日本時代の敷香町に在った地で、先の樺太の戦いでは日本軍・旧ソ連軍との間で激しい戦闘がありました。
日ソ両軍の兵士及び戦闘で命を奪われた全ての戦没者のため、お供した白木のお塔婆を建立し、御本尊様に御題目をお唱えして、お塔婆を丁重に埋置いたしました。
その後、北緯50度線へ。ここはロシア語の対日戦勝記念碑があり、この脇を通って入る森の奥には、かつての国境線を示す標石の跡がありました。前日の雨でぬかるみ地下足袋もドロドロ、小雨と蚊の大群の中で、お看経をさせていただきました。
 目的達成を喜ぶのも束の間、この日は滞在最終日です。樺太~新千歳間の空路は水曜日と土曜日の2日のみ。この日のうちに新千歳空港まで戻りますが、豊原空港への到着予定時刻がかなり迫っていたため、バスの運転手さんにも気合が入ります。行程は約8時間、無事に飛行機に搭乗し、新千歳空港にて解散式を挙行しました。

●振り返って
 今回のご奉公は本当にお計らいの連続でした。お塔婆建立数は実に4,400を超え、希望していたロシア語が話せる日本人の現地に住む方の同行も実現。台風でも行程変更なく、ニレの木は見つかり倒木が橋渡し…。生きてまします御宝前のご加護を頂戴してのご奉公成就であったと一同、今なお随喜の冷めやらぬ思いです。
 末筆になりましたが、今回の青教・樺太戦没者慰霊ご奉公にご支援賜りました全ての方々に御礼申し上げます。ありがとうございました。皆さまの思いにお応えして、更に「お役に立てる教務」を目指しての精進をお誓い申し上げ、ご報告とさせていただきます。ありがとうございます。(了)