2019年12月01日

第3世講有日隨上人のご略歴  開導聖人の弟子として最初に出家 大尊師遺跡保存・薫化会発足にも尽力

日隨上人は、嘉永7年(1854)3月12日、京都室町御池にて父・野原久兵衛、母・繁女の二男としてご出生。開導聖人の最も古いお弟子の一人として文久2年(1862)9歳で入門。実家の野原家は、御開講の安政4年(1857)に入信されている。
 慶応4年(明治元年・1868)大津御法難の後、開導聖人は京都府から出家を公許され、本能寺で得度されるが、その時に日隨上人も開導聖人と共に得度され、弟子の中では最初に出家された。
以後、法華宗内において開導聖人の意を汲みご奉公され、明治8年、妙蓮寺塔中堅樹院の住職。同12年には妙蓮寺の執事に就任。皆久論争にも論者として参加。明治21年、開導聖人の命を受けて妙蓮寺内で折伏を展開されるが、反発を受けて翌22年には妙蓮寺を出寺。この年、開導聖人から大阪佛立講の担任としてご奉公を命じられる。
 翌23年4月、大阪佛立講は開筵式を奉修し、「玉江組」の組名をいただく。同年7月17日、開導聖人御遷化。本葬では副祭主を勤められる。明治24年、開導聖人の実家を取得(現・誕生寺)し、翌年には住まいを移された。また同年、日隨上人を中心に大尊師遺跡保存会が結成され、最初に守口の開導聖人御遷化地(現義天寺)を購入し、この地で御一周忌が奉修された。
明治31年に能化入りを果たし、要種院日隨と名乗られる。同34年に僧正に昇進。
明治37年、2世日聞上人が法華宗の管長に就任され同44年にご遷化されると、第3世講有を継承される。同年、妙蓮寺の貫首を継承、大正2年(1913)には法華宗の管長に就任され、宗内に働きかけて開導聖人に大僧正を追贈せられた。またこの年、信徒の法灯相続を図るため薫化会を設立され、後に教養各会が相次いで発会した。
 大正5年、63歳。このころより健康すぐれず、翌年には快復の御礼御講を勤められるが、妙蓮寺の貫首を辞職。しかし、10月から朝鮮、九州と巡教を勤められ、翌大正7年から8年にかけ各地で開筵式を奉修される。
大正9年(1920)、誕生寺を改築せられて開筵式を奉修。9月まで巡教を続けられるが、遂に12月12日、誕生寺にて御年67歳でご遷化遊ばされた。