ほんもんぶつりゅうしゅう
2016年06月04日
樺太ご弘通の足跡を辿る(3)〜慰霊ご奉公の御塔婆建立にご協力を〜
筆者 第5支庁・乗泉寺 宮崎日良師


3.終戦までの弘通拠点「大泊親会場」

 昭和15年4月以降、村本信護(日長)師の後任として東京第二函館支部より派遣されていた宮崎師が樺太全土の弘通にあたります。当時の弘通教線は、から(元樺太行政の都市)、、西海岸の、、、、まで伸び、広範囲のご奉公となります。

 資料によりますと、当時の親会場は古く大きな建物で、横12メートル、奥行き14.5メートルもあったそうです。言葉は悪いですが化け物屋敷という印象です。どこから手をつけて良いのかわかりません。
部屋の中は何枚も紙を貼り重ね隙間を塞ぐ、生活するにもなにもない鍋一つない。ましてや御宝前のお給仕するお道具すらない状態です。鍋を購入し布で毛羽たきを作り、お給仕用に使用しました。寒中ですと零下30度を超え、水道はなく井戸水です。しかも、全て凍結しますから解凍しての使用です。暖房機(樺太特有のルンペンストーブ)は横に穴が空いて危険な状態でした。積雪も多く除雪作業も大変な労働です。そういうところで自炊生活が始まりました。

 聞くところでは、以前ご信者はかなりいたようですが、お参詣していた気配が全然ないのです。組長さんが居るということで訪問挨拶しながら、何とか4軒ほど探すことができました。その後、夏であろうが極寒の中であろうが毎日のようにご信者の所在確認のご奉公が始まり、多忙な毎日でしたが徐々にあちらで1軒、こちらで1軒と所在確認、将引しながらご奉公体制を作り、親会場の法城護持をされます。

 そのご奉公中、自炊からご縁あって家庭を持ち、毎月の御講やお助行のご奉公が続きます。ご奉公範囲は、東海岸と西海岸(現在は車で大泊から約10時間内)に分かれており、交通機関は鉄道かバス。冬期は雪崩や吹雪と何日も交通マヒが続き、泊まりがけのご奉公です。親会場での大会や法要の時は、狭い会場にご信者が泊まり、ご奉公されました。昭和20年の終戦まで東・西海岸方面のご奉公で、全島で百戸ほどのご信者が所属になっておりました。

4.終戦の混乱に続く戦場化

 昭和20年8月15日終戦の詔勅があり、内地(日本)への引き揚げが開始されます。しかし本当の地獄はここからでした。各地で攻撃が相次ぎ多くの犠牲者も出ました。11日〜16日までに北地区侵攻が開始され、特に周辺での戦闘で戦死者568名と報告されています。

 20日、真岡からロシア軍が上陸、地上戦となります。しかし戦力がない日本、艦砲射撃や空爆、地上攻撃を受け、各地で犠牲者が出ています。引き揚げ船三隻が魚雷攻撃で1,700人以上の犠牲、この戦闘による民間人の犠牲者は3,500人とも3,700人とも言われ、日本軍の戦死・行方不明は2,000名、捕虜となった人は18,302名と報告されています。

 軍人・警官・公務員などはシベリアで強制労働を課せられていました。この頃の日本本土は、復興に向けて再起を図っていましたが、北の大地ではまだ悲惨な現実が繰り広げられていたのです。この戦場化で、ご信者の所在地であった真岡、泊居町、珍内町、恵須取町のご信者は安全地帯に無事避難されていました。西より東に避難した住民は、100キロに及ぶ山林を空襲を避けながら歩き通します。夜中に行動しますから、途中で亡くった方も多くいました。東海岸の国境の町、敷香や落合町は空襲を受け民家はほとんど焼失します。豊原も空襲で何百軒と焼失しましたが、各地のご信者は戦難を逃れております。函館港引き揚げ者は100,000人と言われており、北海道や東北各地に作られた収容施設へ送られ、苦しい生活を送られました。

 宮崎師家族は、強制疎開により18日の最終連絡船にて家内と子供2人と親戚の子供4人で北海道夕張市の親戚のもとに引き揚げたのです。この時点では、16歳以上の男性は残され、宮崎師もロシア占領下で昭和22年まで抑留生活を送られます。

 親会場のある大泊は、軍港となるために砲撃はありません。ただ日本人の家への掠奪行為が1日に何回もあり、町も家も散乱状態、寺院も神社も学校も破壊され、仏像も持ち去られ焼き尽くされるというロシア軍のなすがままです。要求を拒んで射殺された方々も30人以上いたそうです。

 そんな中、大泊親会場はご守護いただきました。周辺の日本人住宅にロシア軍将校が居住したため、一般兵が入れず、掠奪行為もなく、朝夕のお看経から御講も平常通り勤められ、お教化もポツポツできてまいりました。

 2年間の抑留生活の中でのご奉公も、ご信者と共に異体同心でさせていただき、昭和22年3月28日の引き揚げ命令がくるまで従来通りのご奉公をして、翌4月4日、真岡港より金丸御本尊・御尊像のみをお供して6日に函館港に入港。9日間かけて一切の手続きを終え、4月17日に札幌親会場に帰山。数ヵ月、札幌にてご奉公しながら夕張の家族のもと親会場を建立し、翌23年、夕張妙証教会(本照寺前身)と認可いただき、同年12月15日に正式に担任としてご奉公されたのです。

 終戦後、樺太抑留生活を余儀なくされたご信者は、皆無事で、北海道や本州へ引き揚げられたことは仏天のご守護にほかなく、有難いことです。昨年、終戦70年を迎え、ここに改めて北端の地、千島列島及び樺太で戦没された諸精霊に対し、上行所伝の御題目をもって追善供養をさせていただく次第です。(了)

【おわりに】

 以上、全3回にわたって東京乗泉寺・宮崎日良師に樺太でのご弘通について、御尊父の故・宮崎日照上人から伝え聞かれている逸話を交えてご執筆いただきました。宗内教講の皆さまにおかれましては、この慰霊ご奉公の趣旨にご賛同いただき、樺太で尊い命を落とされた戦没者への慰霊の為、かつて樺太に住まわれていたなど樺太とご縁がある方へのご回向の為、御塔婆建立にご協力いただきますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。

合掌

佛立青年教務会