ほんもんぶつりゅうしゅう
2018年11月01日
仁義佛立開拓団の悲劇  克明に記された資料を発見
新潟市の一般男性、齊藤潔氏が、平成24年頃、骨董市で購入された古文書一束の中に「思いでの記 ある満州開拓団の実録」という資料を発見した。そこに記されていたのは、あまりにも凄絶な佛立仁義開拓団の姿であった。
齊藤氏は毎年、終戦の夏が来る度にこの事を思い出されていたが、印刷文字の劣化を危惧、保存すべきと考え、東京のNHKに問い合わせをされた。しかし既に仁義佛立開拓団民帰国者は全員亡くなっており、資料も不明とのこと。
ところが、NHKがかつての取材で知り得ていた同じ佛立の名の付く開拓団の帰国者である梶田邦雄氏(2支・豊中良風寺所属)に連絡が入り、昨年9月に梶田氏の元へ資料が届けられた。その後、資料の重要性を鑑みた梶田氏によって修復され、その内容を知ることができるようになったのである。

仁義佛立開拓団
昭和11年、時の内閣により「満州開拓移民推進計画」が決議され、旧満州(中国東北部)への移住が推進された。この国策に従い、本門佛立宗は「佛立満蒙開拓団」として関西、関東の2地区で満蒙開拓者を募集し送り出した。清風寺を送出母体とした「佛立開拓団」(645名)、乗泉寺所属信徒を中心とした「仁義佛立開拓団」(607名)である。
しかし昭和20年8月9日、旧ソ連の参戦で開拓移民団は国境地帯に取り残され、引き揚げ途中でソ連軍や中国軍、匪賊の襲来を受け多くの死者・行方不明者を出した。佛立満蒙開拓団も実に800名を超える殉難者を出している。殊に仁義佛立開拓団は、8月12日に避難命令が出され関東軍のいる新京への移動中、暴徒化した中国人の襲撃やソ連軍の機銃掃射、あるいは自決などにより、団民600余名の殆どが命を失い、帰国者は10数名(うち子供が10名)であった。
佛立仁義開拓団の資料は東京大空襲等によりほぼ焼失、かろうじて残ったのは佛立開拓団殉難者慰霊法要同志会・東京都民政局援護部「集団十二次仁義佛立開拓団」のみであった。そしてこの度、齊藤潔氏の高配によって「思いでの記」が日の目を見ることになり、さらに詳細な仁義佛立開拓団の姿を知ることができるようになった。紙面の都合で一部ではあるが、掲載させていただく
また、帰国者遺族である東京・乗泉寺所属の大貫正子姉にもこの資料が届けられた。その大貫姉より原稿をお寄せいただいたので併せて掲載させていただく。

思いでの記
ある満州開拓団の実録(原文のまま抜粋)
○はしがき
この記録は、600余名のうち九死に一生を得た飯島四郎氏と金沢豊彦君と村越光子さんの記録と、角田千鶴子さんや竹山こうさんの話を統合して、まとめた真実の現地記録書である。
私達の仏立開拓団は大陸弘通の先がけとして渡満、3年目にはいり、さあこれからという時に、ソ連の参戦により昭和20年8月25日終戦も知らず悲惨な最後を遂げた。それは惨な姿で、あるときは死ということを憑かれたように考えまたあるときは激しい生えの執着を抱いて、空腹と疲労のうちに度々の匪賊の襲撃に力尽きて人々は倒れ呻きながら死んでいった。(中略)
この記録を読んであの時は誰がいけなかった、あの時は誰々が悪かったのだと言うことは、お互いに止めていただきたいと思う。人は誰でもその境遇に身をおいて見ないと苦しさが分からないものである。仮に立場を変えて、自分がその中にいたとしたら、果たして最善の道を取り得たとは思われないからである。
私達は死んでいった同志や家族の冥福を祈るためにもその事実を知ってその労苦を忍び、月々の回向に真心を尽くさなければ成らないと思う。(後文略)

○金沢豊彦君(当時十五歳)の記録(抜粋)
1時間ぐらい歩き木もなく家もない平野のところに出た。すると後方よりすごい速力で我々本隊へむかって近づいてくる数台の自動車がある。言うまでもないソ連の機械化部隊だ。(中略)
トラックの上からは機関銃を撃ちまくり、小銃を持った兵隊はトラックから下り、一人一人を撃ち歩いた。手向かうどころか、誰も起き上がるものもなく、伏せたまま撃たれるだけ撃たれるより仕方がない。(中略)
敵は中々去らず暫くすると今度は持っていた武器を皆とりあげ、それが済むと一人一人順に大人は銃剣で刺し、子供は銃尻で殴ってきた。こう端から端まで細かく改められてはもう到底助からない、絶体絶命だ。それでも死んだ振りをしてじっと様子を伺っていると段々足音が近づいてきた。2メートル位離れたところでお袋がやられたらしい。次に妹がやられ遂に私の番だと思った。瞬間、ガアーンと一撃食らった。3回続いて殴られ鼻と口から血が出てもう生きた心地はなく、いっそ舌を噛み切って死のうと思ったが意志が弱いせいか自分ではどうしても噛み切れなかった。次は弟の番だ。私の足元で伏せっていたが銃で殴られると私のズボンにしがみつき「兄ちゃん兄ちゃん」と泣きついて離れない。兵隊は無理に立たせ再び頭を殴り飛ばした。2人とも頭をやられ、こうして女子供の別なく容赦せず殴るか、銃で刺し殺した。(中略)
方向が解らないので校長先生が磁石を持っていたのを思い出し、先生を探すとぢき近くで奥さんと坊やと3人頭を並べ仰向けに死んでいた。悪いとは思ったがズボンのポケットを探すと磁石が出てきた。ガラスが半分欠けているが未だ役に立つ。杉本副団長も御本尊を背負って家族の者と死んでいた。(中略)
兄を探すのに大勢倒れているのでなかなか解らなかったが、約30メートル離れたところで大の字で仰向けに倒れ息絶えていた。刀を持っていたのでその刀で頭を切られ長さ10センチ程バックリ割られており一撃で死んだようだ。頼りにしていた兄がやられ実に悲しい思いだ。服に付けていた懐中御本尊を取り外し形見に持って行くことにして身に付けた。(中略)
息のある者は起こされてトラックに乗せられているらしい。(中略)とうとう見つかってしまった。トラックの傍には20人ほど居たが全部子供だ。(中略)トラックに1時間半も揺られて満人部落へ着いた。その部落に1泊し27日に再びトラックで洮南の収容所へ入った。病院へ着いて始めて終戦を知りとても信じられなかった。洮南に2ヶ月余収容され、新京へ送られ、新京の孤児院で9ヶ月を過ごし、昭和21年8月10日に九州の博多に上陸した。その時は26名のうち病気で死んだり満人に連れて行かれたりして帰国できた子供は7名になっていた。