ほんもんぶつりゅうしゅう
2015年05月18日
終戦70年「パプアニューギニア戦没者慰霊回向」御奉公記
鎌倉・顕証寺 信清宏章


【なぜ、パプアニューギニアでのご回向となったのか?】

 去る平成27年1月17日〜24日の8日間、南国パプアニューギニアの地で佛立宗教講の有志者により戦没者の慰霊回向御奉公を行いました。これは、第5支庁房総布教区歓照寺所属の三浦宏之氏が、かねてからの知己であるデリカフーズ株式会社(平成26年末に東証一部上場)の創業者・現在取締役会長の舘本勲武氏より「海外で仕事をした経験から、戦後日本が速やかに立ち上がり、海外で後進の者がこうして仕事ができるのは先人のお蔭ということを痛いほど感じた。特に命を賭してまでも日本の為に戦ってくださった亡き英霊、犠牲者のことを忘れてはならないと、自身で戦没者の供養を行っている」という話が出、三浦氏は、自身の祖父にあたる故岡本日洋上人(下田開進寺前住職)が第二次世界大戦・大東亜南太平洋方面の戦争でラバウルにて従軍し、命からがら復員され、戦後戦死した仲間のご回向を終生なされていたという話を吐露したところ、舘本会長はすぐさまそれに呼応。是非、三浦氏の信仰する宗旨の僧侶に同行願って回向を実行したいとの旨で、三浦氏から第5支庁の方へ話が持ちかけられたのです。川手日成支庁長のもと募集が掛けられ、三浦氏所属の歓照寺住職・岡本日響師のご好意で共催とさせていただき、管内寺院より深澤堅洋師(東金妙恩寺住職)、岡本堅成師(乗泉寺教務)、金澤歓一師(乗泉寺教務)、荒木誠啓師(清秀寺教務)第4支庁より信清宏章師(鎌倉顕証寺住職)の5師が参加。三浦氏と大津正典氏(乗泉寺信徒)そして、舘本勲武氏の計8名でツアーが組まれました。


【パプアニューギニアにおける日本の戦争と戦後の遺骨収集の取り組み】

 南洋の国パプアニューギニアは、1975年(昭和50年)にオーストラリアより独立をした国であります。ニューギニア島の東半分と周辺の島々を含めて総面積は日本の約1.25倍。今回は、ラバウルのあるニューブリテン島と本島の北東沿岸部のマダン、北部のウエワクを訪れました。戦中派の人々からは、未開の地とも認識されたほど、実に3万年以上前から人類が住み、欧米人が渡ったのが16世紀初頭のことといわれます。以後、挙って欧米の列強が植民地化を進めました。第一次世界大戦でドイツが敗戦し、旧ドイツ領赤道以北ニューギニアは連合軍側だった日本が委任統治となり、その後、大東亜共栄圏の理想を掲げる日本軍の資源を調達する重要な領土となっていきました。1941年(昭和16年)12月8日、ハワイ真珠湾の奇襲攻撃を以て、事実上、米英に宣戦布告をした日本軍は快進撃を遂げ、翌1942年(昭和17年)初頭には、ニューブリテン島(パプアニューギニア)のラバウルに上陸占領。以上のように、陸海両軍は、各方面で戦果を挙げていきました。しかし、6月のミッドウエイ海戦で空母4隻、航空機約300機を失い、この頃から日本の進撃は止まり、悉く敗退をし、ニューギニアでは、日本軍がラバウルを拠点に、本島のラエなどに基地を作り、ポートモレスビー攻略を試みましたが、米軍が「飛び石作戦」なる戦法でさすがのエースパイロット達の揃った「ラバウル航空隊」も消耗戦を余儀なくされ、弱体化し、とうとう日本の守備範囲は北上せざるを得なくなっていきました。トラック諸島やサイパン島死守のためラバウル基地の飛行機は0機の状態となり、終戦まで日本の基地として残存しつつも有名無実の状態であったといわれます。ニューギニア方面の日本軍の総数は最大20万人投入されたとも言われ、最終的には約16万人のうち1万数千名の引き揚げ者で、実に14万人を超える戦死者数を数えたという。1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約発効後から南方地域(東南アジア・南太平洋)を皮切りに、遺体遺骨収集が進められ、第二次世界大戦において海外で戦死した約240万人のうち、2009年(平成21年)3月現在、日本に送還された遺体(遺骨)は約125万柱と言われ、現在も収集活動が進められています。まだまだ、多くの遺体、遺骨が埋もれているのが現実で、各方面での慰霊団も度々組まれ臨んでいますが、ご回向は足りていないのが現状で、今回の法華経本門の御題目のご回向は、故岡本日洋上人の最初下種のご奉公があったればこそ実現したもので、遺骨収集の今後とも絡めたら二陣三陣が必要と感じます。


【全8日間4市27か所にご回向を敢行!】

 1月17日午後6時に成田空港に全員が揃い、約一時間遅れてのフライトとなりました。機に預ける荷物には個人の物の他に舘本会長が今まで行ってきた慰霊の遣り方が踏襲され、コシヒカリ米が小分けの袋で約30キロをはじめ味噌汁やのり等を詰めたトランクが6つもあり、電気釜なども持ち込まれました。これは、慰霊碑前やご遺体等が発見された所、または近くの海に供えるおにぎりを作成するためのものであります。想定済みではあったものの何と約25キロの重量オーバーとなり、超過料金を納めたのにはさすがに驚きました。

 飛行機は、1月18日午前5時定刻通りにポートモレスビー・ジャクソン国際空港に降り立ちました。ここで入国審査となりましたが、動植物検疫(クアランティーン)が問題でありました。何しろ米や食品関係を詰めているからです。外国では、果物などは同国間(国内線)であっても事前の申請がなければ没収されてしまうことがあります。三浦氏が英語で一所懸命に話したところ、通過できました。三浦氏曰く「情に訴えた。これは、慰霊に使うもので自分たちのためではない。戦死した方々に供える為だ」と、さすが海外での生活が長かったのと英語力、さらに彼の独特のゼスチャーが功を奏したと思います。入国を済ませ、午後に発つラバウル便に荷物を載せ替えました。この時も、超過料金を納めることになりました。既に入国を済ませているので、現地通貨での支払いとなり、こちらの通貨は、キナとトヤと呼ばれ、100トヤで1キナとなる。言語は、英語が公用語でビジン語といわれる言葉をはじめとして、800の部族それぞれの言葉があるといわれます。ゲートウエイホテルという空港に程近いところで朝食をいただいた後、市内の量販店で電気釜を買い、再び空港へと戻り、ラバウルに行く便に乗りました。機は、順調にラバウルの地に午後1時に降り立ちました。現地を案内してくれるフレッドという青年が待っていてくれ、以前、日本で農業を学び住んだことがあると言い、日本語も判る。

 車でココポという街に向かう。ホテルは、ココポビレッジホテルという。天候は、やや下り坂で、ニューギニアではこの時期は雨期にあたり、実は、日本を発つ前日に「台風1号」発生の報が入り、このニューギニア近海での発生であるため我々の到着前日は荒れ模様であったという。今にも雨が降ってくるような状態でありました。

 まずは、トベラという地区にある日本陸軍の南飛行場へ向かいご回向。飛行機の残骸が寄せ集められていました。そこに御本尊を奉安し、経木塔婆をお供えし、日章旗等を飾り、私(信清宏章)が導師となり一座御看経をさせていただいた。御看経が終わり、お供えしたお菓子等を見物の現地人にあげると、子供たちが次から次へと湧き出でるように現れ、大人はピースの煙草を美味しそうに吹かしていました。一同車に乗り込んで、車を走らせても子供たちは平気で近寄ってくる。危ないと思いつつも、牧歌的な雰囲気に心が和みました。

 次に向かったのは、ココポ地区にある日本の兵器を集めた博物館。ここは庭に兵器が陳列されていました。ここでは深澤師が導師となりました。幸いマンゴーの大木下に御本尊を奉安させていただいたので、激しい雨にはなったもののあまり濡れずに済みました。日本軍の銃火器や飛行機のプロペラ、エンジンに魚雷か爆雷みたいなのが芝生の庭園の石の代わりみたいに置かれているのが何とも滑稽でありました。

 激しい雨も、雷とともに遠ざかって行き、ホテルに着いた時には上がっていました。ホテルの前がビーチとなっており、日本で申し込まれた経木塔婆と水塔婆を流し、御看経をさせていただいた。夕食で一日目は平穏に終わったかのように思いました。ところが就寝後、またまた激しい雷雨となったようであります。

 1月19日早暁、ホテルの厨房を借りてご回向の地でお供えする「おにぎり」を作成する準備に取り掛かりました。米を研ぎ、ミネラルウオーターで浸し、3クールくらい繰り返し、手際もよくなっていきました。厨房の従業員も「ライスボール」とはしゃぎながら手伝ってくれた。午前10時にホテルを出発。

 車でいよいよ赤根崎へ向かうことになりました。ここは、岡本堅成師と三浦氏の祖父である故岡本日洋上人が生死を分けた因縁のある地であります。途中、日本軍の倉庫として使われた洞窟がありました。ここで、下車し玄題口唱し、見学しました。この崖の上には、トンネルがあるといわれ、日本軍の病院だったといわれます。
     
 赤根崎に着いたのは午前11時近く。民家を通り、ビーチへ出ると朽ちた突堤なのか船の残骸なのかわからないが、赤錆びた鉄の塊が海へ伸びていました。御本尊を奉安し、日章旗を掛け、祭壇におにぎり等をお供えし、一座ご回向の御看経をさせていただいた。故岡本応勤日洋上人は、引き揚げ船に乗り込むために小型船で向かったそうですが、どういうわけか引き揚げ船に乗れず、引き返したそうであります。引き揚げ船は出航をしたが、運悪く米軍機に見つかり撃沈されたとのこと。岡本上人は、乗らずに命拾いをしたのである。何でも出征される時、佛立第八世講有・恩師日歓上人が「応勤には、弾が逸れるよ」と仰言ったと言われ、この時を含めて二度にわたる命拾いをされたといわれます。岡本上人は終生、そうやって死んだ仲間のご回向をされて、孫である三浦氏にも語られていたそうです。今回はさらに岡本上人を恩師と慕う深澤師が導師となり、「御因縁に報いる御奉公がさせていただけただろうか?」としみじみ語られていました。御看経の後、三浦氏は、特に感慨深くおにぎりや塔婆を海へ流していた姿が印象的でありました。

 次に向かったのは、旧ラバウル市内に面するシンプソン湾であります。ラバウルには、日本名通称花吹山と西花吹山という活火山があり、1994年(平成6年)の大噴火により、集落の殆どが火山灰で埋まったとのことです。正午に船着き場に到着し、船に乗り込みました。船首に立ち、今度は私が導師となり、御看経をさせていただきながら湾内を周遊しました。透明度がよく、おにぎりが深く沈んでいく様子がみてとれる。経木塔婆や書写された一遍首題の御題目、用意されたクルクマ等の南洋の色鮮やかな花が投じられ、船の後へと遠ざかって行く。水面に太陽の光が乱反射して、ジリジリ、こんがりと肌が焼けていくのを感じました。我々が船着き場と思っていたところは、実は沈船で、突堤のように見えていたのが船首で、日本の高速輸送船「小牧丸」という船であったといわれます。

 食事後に向かったのは、「南太平洋戦没者の碑」という日本政府が作ったポイントであります。ここでは、現地案内人のフレッドが、車中で三浦氏より、ご回向の仕方を英語でレクチャーされていて、深澤師が何十連もの御数珠を持参し、運転手や案内人にも配っていました。碑の前で、御本尊が奉安され、深澤師導師のもと一座御看経となった。フレッドは一所懸命に御題目を唱えていました。

 次は、いよいよラバウル東飛行場跡です。花吹山に近づいて走るが、路は一面火山灰で覆われていました。ここは、有名なラバウル航空隊、特に日本海軍の零戦が居たところです。ここでは、土中に経木塔婆等を埋め、ほんの少しの玄題口唱で終えました。

 車で少し行ったところに日本軍の飛行機の残骸が土地の窪みにありました。日本陸軍の九七式重爆撃機だといわれます。ここでは、御本尊を奉安し、深澤師が導師をしました。

 ご回向が終わり、車に乗り込むと舘本会長が「もう一度東飛行場へ行って拝んでもらいたい。あそこはラバウルのメインの土地だから」と戻って、再度土中に経木塔婆を埋め直し、御本尊を奉安し、今度は私が導師を勤めました。それでもまだまだ会長は名残があったようで、フレッドに後日改めて供養するように言い、彼は我々が日本に帰国した後、会長の言いつけ通りに供養した結果を写メで三浦氏のところへ送ってきました。

 次にラバウル東飛行場を車で進み、花吹山の麓近くの入江に着いた。降りてみると入江には湯気が立っている。温泉が湧いていました。源泉が直ぐ側にあり、気泡がプクプクと水面に上がってくる。指を入れてみるとかなり熱い。そこで、御本尊を奉安し、深澤師の導師により一座御看経をいただいた。終わって、岡本師がザブンっと女の子達の真似をして、温泉につかりました。

 もう既に、夕刻となり、次の場所へと急ぎました。そこは高台にあり、シンプソン湾を一望できる展望台のようになっていました。日本軍の施設(官邸山)があったようで、ここでも御本尊を奉安させていただき、私が導師となり一座御看経。ラバウルの市内、ホテルのあるココポの街を俯瞰するかのような眺望に見とれながら、最後の場所へ向かいました。

 そこは、ラバウルの街を通り、ちょっとした路地を曲がったところ。奥の鬱蒼としたヤシやパイナップルが自生している獣道みたいなところをくぐり抜けると、眼前に洞窟が見えてきました。その洞窟には、日本軍のものと思われる艦艇が収納されており、格納庫のような感じでした。ここで御本尊を奉安し、蝋燭に火を点け、深澤師の導師によりご回向させていただいた。終了後、一同洞窟の中に入ってみました。何隻もの艦艇が収容されていた。後で調べてみると日本軍が開発した世界最初の上陸用舟艇「大発動艇」というものでした。

 もうすっかり薄暮となり、ホテルに戻り、昨日と同じようにホテル前のビーチで御本尊を奉安し、おにぎりを流しました。

 20日は、ポートモレスビーに戻り、午後にマダンへ発つ予定でした。朝3時に起床し、4時過ぎにはホテルを出発しました。

 ポートモレスビーに着くと、車に乗り、向かうところは「ココダトラック(渓谷)」です。ココダトラックへ向かう道は、かなり勾配のあるところ。ここをオーストラリア軍が銃器を持って登ったといわれます。まるで映画「八甲田山」のようなイメージを持ちました。渓谷を跨ぐ橋があるが、橋桁がぐらぐらっと動く。落ちやしないかと冷や冷やものでした。このオーウエン・スタンレー山脈といわれる高い山々が日本軍にとっても進撃の障害だったようです。やっとココダ祈念碑に着きましたが、ここはオーストラリア軍が日本軍の進撃を食い止めたという意味で建てられた顕彰碑のようであります。ここでは、玄題口唱程度に留め、下山を始めました。ルウナ滝に寄り、眼下の渓谷に落ちる大瀑布は圧巻でありました。

 下山し、ポートモレスビー市内に戻りました。ここで信じられないことが起こりました。前を走っていた日本製のRV車のタイヤが外れ、あわやというところで運転手がブレーキを踏み、当たらずに済みました。災難除滅の御利益でした。昼食後、再びポートモレスビー空港に向かいました。ここからマダンに向かうことになっていましたが、飛行機のフライトがキャンセルになってしまいました。空港の中で荷物を集め待機しているところに、同じ飛行機に乗るはずだった乗客で白人の男の人が三浦氏に声を掛けてきました。オーストラリア人で、我々を直ぐ日本人だと分かったらしく「戦争をしてすみません」と言ってきました。すかさず一同、「我々こそすみません」と深々と挨拶のゼスチャーをしました。ココダ祈念碑に行ってきた後のことで、御看経が通じたのかなと思いました。待たされた中での心和む出会いでありました。その後、ポートモレスビーの岬の丘にあるクラウンホテルに入りました。この時、日本人2人がイスラム国に捕まり、身代金を要求されていることを知りました。大変なことになったと思いました。

 一方、こちらの方は、突然のフライトキャンセルにて予定が狂い、もう既に薄暮の中、予定にありませんでしたが、このポートモレスビーの海岸で塔婆供養とおにぎりを流すことになりました。しかし、このポートモレスビー市内では、ちょっとの外出も車でしなければ危ないのです。ホテル下にはエラ・ビーチという場所があり、車で降りてみると、熱海の海岸町のような感じですが、街灯は少なく、暗い雰囲気。海岸に面した山側の斜面に立ち並ぶ施設はセキュリティがしっかりとなされているようです。海岸側には公園や駐車場があり、酔っ払っている者やカーステレオを鳴らして踊っている若者もいる。泥酔者がたむろっていた。こんなところで絡まれたら怖い。イスラム国の報道があったばかりのこともあります。公園側のビーチに降り立ち、塔婆、おにぎりを流し、私が唱導し、一同御題目口唱しながら、改めて戦争で散った両軍の慰霊とイスラム国での事件を殊更按じながら世界の恒久平和への祈りを捧げました。

 翌21日は、午前2時半起床。かなり早く、暗いうちからポートモレスビー空港に入り、順調にフライトとなり、約1時間のフライトでマダンの空港に着きました。ラバウル空港よりも田舎で、荷物受けがターンテーブルではなく、アジアンテイストの木製の棚でありました。ホテルから迎えの車が来ており、こちらは荷物車がけん引されている。20分くらいでホテルに着きました。なかなかのリゾートホテルで、部屋に入ると窓の外は海でした。左隣は岡本師と金澤師の部屋で、荷物部屋兼炊き出し場となりました。おにぎりができたところで、準備をし、ご回向に出発しました。

 ヤボブという場所に着きました。オーシャンビューの高台で、ここは、日本軍の野戦病院があったところで遺族会か何かが記念碑を建てていました。深澤師が導師となり、ご回向させていただいた。お供えしたおにぎりをここでは流せないので、会長が「兵隊さんの代わりに一口ずつ、おにぎりと味噌汁、梅干しを召し上がっていただきたい」とのことで、頂いた。会長が「これは美味しい。良くできている。腕前が上がりましたね。これなら大丈夫」と言っていただいた。食品会社の創業者からそう言われて一同、心をこめてさせていただいた実感を手にすることができました。

 次に向かったのが、アレキシスハーフェンというところで、日本海軍の施設があったところ。敷地内に入ると、芝生の植わった綺麗なところに戦車の残骸がありました。桟橋跡で私が導師となってご回向させていただいた。海の上でカヌーを操っていた親子が一体何が始まったのだろうと船を漕いで近づき、不思議そうに終始こちらを伺っていました。

 既にお昼近くになっており、「呑龍」の残骸と第18軍司令部跡地に行く予定でしたが、前日来の豪雨で行かれないという。一か八か、第18軍司令部跡地に向かうことになった。路が大雨で削られており、大木も倒されている。オンボロのワゴン車は何とか登り切りました。そこは、アムロン高原と呼ばれており、今は個人の邸宅が建っている。人の家なので許可を求めに行った。白人のご婦人が対応してくれ、庭先に行くと眼下にはマダンの街や島々が一望できる素晴らしいロケーションでした。御本尊を奉安し、深澤師が導師を勤めた。時折心地よい風がくるものの、深澤師と私は燕尾を被っているおかげで、頭頂に直接日射を浴びることはないが、汗だくになりました。ここまで登れたのだから次の「呑龍」へ行こうとなったが、呑龍への道は、ここよりも険しいらしく、断念をし、ホテルに帰ることになりました。

 途中、マシンガンビーチがあるので、そこへ寄って海におにぎりを投じようということになりました。マシンガンビーチの磯は、思ったよりもゴツゴツしている。溶岩の流れ込んだものだろうか?教務5師は皆、地下足袋であったが結構、足裏が痛い。岩の先端まで行き、御題目口唱をしながら、他の皆は、海におにぎりや味噌汁を流しました。終わり、日本軍のマシンガンの前で記念撮影をしました。

 ホテルに帰り、遅い昼食となりました。ホテルのレストランでは夜生演奏があるらしく、リハーサルをしていた。それだけでもよいのにと思いつつも、昼食を終え、出発となった。車で40、50分走っただろうか?またまた山道を進んでいるが、到着したようで、ちょっとした広場に着きました。そこには装飾をした男女が待っており、車を降りると、先導するかのように獣道を降りて行った。原生林が生い茂った谷間に降りていくと、芝生の植わった広場に出た。踊りを披露する部族が待ち構えていた。ここは、ハリク村といい、アメネ族のシンシンダンスを見せてくれるという。これは、兎に角、歓迎の印なので、朝から用意していたらしい。それを聞くと途中で帰るのは後ろ髪が引かれる。三浦氏が「踊りながら帰りましょう」と名案を思い付いてくれた。皆で調子に合わせて踊りながら移動し始めると、観衆がゲラゲラと笑い出した。それに気付いた子供たちが一斉に追いかけてくる。そのうち踊っていた女の子達も付いてきて、車まで見送ってくれました。

 ホテルの近くに連合軍が建てたローソク型の戦争の顕彰碑があり、見学をした。近くには大きなガジュマロの木があった。その晩の夕食は、格別に美味しかったです。

 明けて1月22日。今日は、炊き出しおにぎりを作成し、最終地ウエワクへ向かうことになっている。目が覚めると、4時30分だった。その時、地震が起こりました。体感では震度3くらいだったろうか?何しろバルコニーの外はすぐ海。津波が来たら一大事だ。しばらくしてからもう一度あった。いよいよ心配になり、皆の所へ行きました。心配事は同じでした。ラバウルの活火山が活動をしているのだろうか?西に行けばインドネシア、ジャワ、スマトラがあるからこそ一層心配だ。これは何かの瑞相だろうか?六種震動というものがあり、み仏が大事な説法をされる時に起こるというのは仏教全般の定説である。しかし、法華経の序品第一というところには、改めて六瑞というものが起こり、その一つが「地動瑞」で弥勒菩薩をはじめとした聴衆が殊更、驚いて疑って質問すると文殊師利菩薩が他の経(教)にもない大きく久しい瑞相だと答えられる。これによって法華経という教えの稀有なことが述べられ始めていくのであります。さらに日蓮大士お祖師様は「大地が動く事は人の六根が動く事に依る。人の六根の動きの大小に依って、大地の六種にも高下がある。爾前の諸経には、一切衆生が煩悩を破るようではあるが、本当は罪障消滅出来ていない。今、法華経は元品の無明を破ることのできる教えなので大動がある。(趣意)」と祖師五十四歳の時、四条金吾に与えた「瑞相御書」に仰せである。そして「目や耳など五根(機能)が驚き騒げば天変がある。そして人の心を動かせば、地が動く(趣意)」と。わかりやすい解釈である。法華経の御題目の功徳で、亡き戦没者方が喜んでくださっているのだろうか?そんな感慨をこの地震で思いました。

 朝食後、作業部屋で炊き出し、おにぎり作りとなった。皆、段々と手馴れていき、あっという間に49個のおにぎりが出来ました。出発は少し遅れたが、程なく空港に着いた。飛行機に乗り、ウエワクの空港に着きました。荷物を車に積み街を走ると安部晋三首相の写真つき看板が2つ3つありました。昨年7月にこのウエワクを訪れたからです。車は海岸線を通って、坂を上ったところがホテル。途中の海には座礁した船が置き去りにされており、これは比較的新しいもののようでした。 道は、岬の先端で終わっており、その手前左側にパラダイス・ニューウエワクホテルという表記のエントランスがあった。荷物を降ろし、階段を下がると受付があり、正面には軍艦旗とパプアニューギアの国旗が背景で、負傷した日本兵を担ぐ現地人の姿が描かれている絵が飾ってありました。すると奥からジャケットを着た日本人が現れました。この人がカワバタ氏です。一日目のラバウルでの食事の時、舘本会長から今回のツアーの目的や動機が披露されましたが、その目的の一つがこのカワバタ氏に会うことでした。未だ帰還されていない日本人のご遺体、ご遺骨のことに話が進み、この後に厚生労働省の遺骨収集調査団が来るといわれます。そして、このホテルの一角に、カワバタ氏の所に集まったご遺骨を保管してあるというのです。受付の奥に食堂があり、昼食となりました。カワバタ氏のことは、舘本会長より「仙人みたいな人」と現地や内地の日本人から言われていると聞かされていました。中でも「人間魚雷」の生き残りという肩書が付いているそうです。昼食時にカワバタ氏も横に座り、嬉しそうに懐かしそうにお付き合いをしてくれました。

 支度をしてご回向に向かいました。洋展台といわれる高台の英霊碑の場所に着きました。昨年、安倍首相も訪れたところ。御本尊を奉安し、深澤師が導師となり、一座御看経。英霊碑の上には日本兵の鉄兜が並べられ、双眼鏡の三脚か銃器の三脚、それらも供え物のように置かれていました。穴を掘り、そこに経木塔婆を埋め、御供水で清めました。

 次は、ブランデースクールというところ。車でさらに奥へ走った。ブランディというところに学校があり、そこに日本軍の兵器と顕彰碑がありました。行ってみると、サーチライトみたいなのが置かれてあり、ここに日章旗を飾り、御本尊を奉安し、私が導師となって御看経をさせていただいた。

 この日は、三箇所と決められており、最後は午後4時を回っていましたが、ホテルへ帰る道筋の平和公園でのご回向が最後となった。日本が作ったものだそうで、ちょっとした「廟」を感じさせる作りでありました。ここでは納骨も出来るらしい。御本尊を奉安し、深澤師が導師を勤めました。

 ホテルへの途中、海岸に寄り、おにぎりを流した。

 ホテルへ戻り、ホテルの庭でカワバタ氏と記念撮影をさせていただこうと集まり、その時に、庭の一角に小さな墓標があることに気付きました。聞くと日本人の遺族が分骨?か何かを希望されたか、あるいはカワバタ氏が好意で安置している?というものでした。いずれにしても植栽され、小さいが立派な墓陵を呈していました。
 お腹もすき、しばらくして夕食となりました。今日は、待望のカワバタ氏の話をじっくりと聞くということが舘本会長からも言い渡されていました。先んじて、名刺をいただいた。「パラダイス・ニューウエワクホテル オーナー」と「日パ文化交流実行委員長」との肩書が入っていました。食事が始まる頃、もう一人日本人が宿泊することになっていると聞かされ、自己紹介されました。彼は、国際協力機構JICAの在ポートモレスビー要員で中条典彦さん。舘本会長の呼びかけで一緒に食事をすることになりました。

 食事をしながら、自己紹介。一番の的は川畑氏であります。本籍住所は日本の鹿児島県のままで、京都で育ち府立二中に進んだ後、日本海軍甲飛13期生となり、宝塚航空隊に配属。水上偵察機に乗るような任務だったという。しかし、終戦間際ということもあり、飛行場には一機もその姿がなく、連れられて行ったところが瀬戸内海の島で、訓練を受けた。その後、列車に揺られて着いたところが山口県の光というところだった。そこで初めて指令を受け、見せられたのが全長14メートルある船だった。しかし、それは船というものではなく「人間魚雷」と呼ばれる特攻兵器「回天」というものだった。これに1トン以上の爆薬が積まれ、単座で乗り込み、ハッチが閉められたら二度と出てこられない。脱出装置もないというものだそうだ。これで敵艦目がけて体当たりするのが任務という。終戦間際、日本が降伏を受け入れる前提で、マッカーサー元帥が日本上陸を画策していた。まず真っ先に日本に解除命令を出したのが、回天部隊の解除だったという。日本軍は本土決戦に備えて、必死の白兵戦を覚悟していたのである。しかも恐ろしい人間兵器で。アメリカも零戦の性能や神風特攻、そして日本軍人の精神にほとほと恐怖を抱いていたというのである。終戦時の階級は「上等飛行兵曹」。このウエワクの地は、22ある州の一つ東セピック州といい終戦後、残留日本兵のオーストラリア軍による収容所が置かれ、約1万3千人がいたという。後で調べると、こうした南方方面の復員には、残った航空母艦(世界最初の正規空母・鳳翔排水量1万トン、速度25ノット 日本海軍最後の建造・葛城 排水量2万トン、速度32ノット)等が使われ、終戦翌年11月まで、それぞれ8、9往復の航海をし、合計10万人近い人数を運んだという。因みに、オーストラリア軍には航空母艦が1隻もなかったようで、珍しがられたとのこと。それにしてもなかなか戦後70年経った今では聞けないような話が生き証人の口から語られた。

 続いて舘本会長からは、この旅の中でも縷々お話いただいたことがまとめられてお話しされた。自分がなぜ、戦地跡を訪れ慰霊をするようになったか。「自分が会社を起こし、今日生きているのは多くの方々のお蔭。まだ若い時分に海外勤務で外国人から殴られそうになったことがあった。その時に仲裁に入ったアメリカ人から『お前達、本気でこのジャップを殴ろうと思っているのか?それなら殺されるのを覚悟してやれ。彼らは死ぬ気になって反撃をしてくるぞ!』と言って退散させてくれた。これも命を懸けて日本を守り戦ってくださった英霊たちの精神のお蔭と思ってせめて、慰霊を行ってご恩返しがしたい。そしてまだまだ帰還されていない方々のご遺体ご遺骨の動向を見守りたい。」と述べられた。

 JICA職員の中条氏は「ボランティアでカリブ海に浮かぶセント・ビンセントという島に行き、日本政府により建てられた市場でお手伝いをした。その時に、日本が作ったものが現地でこれだけ受け入れられているということに心を動かされ、独立行政法人 国際協力機構に入ることにした」と語られた。今回は、ウエワクで日本が作った施設の監査があるので、下見に来たとのこと。3年くらい家族と移住してきているが、教育費などが嵩むという。特派員も大変である。話は大いに盛り上がり、川畑氏の娘さんが作ったケーキが美味しく、この日はビールではなく、ケーキ片手に和やかに終わった。

 朝起きて、庭に行くと既に三浦氏がいました。すると何人か集まり、綺麗な景色を眺めて、次に一角のお墓をじっくりと拝見してみました。大きい墓碑には「陸軍伍長 打越操 昭和十九年六月二十二日ウエワク戦死 行年二十九才 大義院純忠道堅清居士 施主 打越勇 範男 勝利」と刻まれ、小さい墓碑には「伊奈葉安義 昭和十九年六月三十日 浄明院清譽勇進居士 施主 伊奈葉實鶴」とあります。遺族会か何かのご縁で川畑氏がこの一角を提供されているというような話。続いてこのホテルに到着したときに伺った収集されたご遺骨のご回向をどうするかという話になり、安置されているところでするかどうか?そこはロッカー室のようなところ。その時に、このお墓に安置して、朝食後にご回向をさせていただけたら良いのでは?という案が持ち上がり、それは良案だということになり、早速朝食をいただいた後、法衣を付け臨みました。

 午前9時より一同に墓前へ集まり、御本尊を奉安し、収集されたご遺骨の4袋を安置して一座法要を営ませていただいた。一連のご回向での法要式は、深澤師との取り決めで、導師は私と順次交代制とし、無始已来〜勧請、回向言上〜品題〜御題目口唱〜此経難持〜以要言之〜結文との流れで統一していました。この時は、私の番となり、川畑氏夫妻も参列してくださるという。夫妻は、深澤師が用意した当宗の御数珠を持ち臨まれている。今までと法要式を変えて、従来のご回向法要式に切り替えて執行させていただいた。日月偈と引題目では、亡き戦死者、戦争犠牲者の諸精霊に御題目の功力で安らぎと値法のご縁が結ばれるよう、そして久遠偈では、久遠本佛を中心に諸仏諸菩薩諸天善神のお守がいただけるようにとの思いを込めて言上させていただいた。法要は、お線香を皆一人ずつお供えし30分以上の長きに亘りましたが、川畑氏は殊の外、喜んでくださったようであります。それぞれの顔に朝の陽光が射し、何とも言えない思いに満ち溢れているように見えました。そして御題目の宝塔がそれぞれの胸に金字塔のように宿るのを見た瞬間でした。

 法要が終わり、すぐに車に乗り、最後の慰霊に向かった。約1時間以上かかりました。路が段々と荒地になっていく。やはり、雨期ということもあり、相当強い雨が降り続いているようです。土石流などの痕もあちらこちらにあり、おまけに路が川になっているところもありました。そして、片側車線が崩落している個所もあり、何の修繕もしていないところを通る。生きた心地がしませんでした。何時崩れてもおかしくない。大雨で大地が引っ繰り返っているといっても良いほど荒れているのです。

 やっと現地に到着したのは、1時間45分後。ブーツ飛行場跡というところ。飛行場はジャングルになっており、路の側の入り口に「忠魂碑」が建っていました。日本人の遺族が建てたものらしい。御本尊を奉安し、深澤師が導師を勤めご回向させていただいた。一人ひとりお線香を供えました。碑の向かい側には丘陵があり、抜けると浜辺があった。ここでもおにぎりを投じた。サンゴ礁の白い砂とは違い、砂鉄交じりの黒い砂が印象的でありました。

 次はいよいよ最終の地、ボイキン村というところにある野戦病院跡地。来た道を戻り、海岸筋にそこはあった。海岸というより、海辺の少し高くなったところに集落がある。その一角に慰霊碑が建立されていました。直ぐ側には、韓国の方が建てたと思われる慰霊碑もあり、わざわざ日本語で被虐的な内容の慰霊文がプレートに刻まれていました。 最終のご回向は、私が導師となり勤まった。終了後、穴を掘ったところに経木塔婆を埋め御供水で清めました。そして、皆で経木塔婆を海に流しましたが、波が高く、戻ってきてしまう。何とか流し、その後ホテルから持ってきたお弁当バスケットを開けて昼食となり、すべてのご回向を終了させていただきました。


【おわりに】

 この慰霊ツアーの前後に、御講尊 小山日誠上人より戦争時の体験が語られた。昭和20年3月10日東京大空襲の最中に、燃え盛る炎からご自坊の清雄寺の御本尊、御尊像を避難、ご遷座されたお話が中心であったが、猊下よりわかりやすく焼夷弾というものがどういうものか、あるいは米軍がそれまでの精密爆撃から絨毯爆撃に切り替えて、東京をはじめとする日本の主要都市が爆撃され、多くの市民が犠牲になったということも語られた。逃げ惑う市民をよそに御本尊、御尊像を避難申し上げなければならず、そういう方々を救って差し上げられなかった無念さをその声を振り絞って語られた。グアム島での司令官に着任したカーチス・ルメイは、B29爆撃機を使用して、無差別絨毯爆撃を指示し「鬼畜ルメイ」と呼ばれ、憎まれた人を1964年(昭和39年)に日本は自衛隊創設に関して功績があったとし、勲一等旭日大綬章を与えた事実も語られた。市民を巻き添えにした爆撃により日本人の厭戦感を煽るのが目的だったとされている。猊下は、「どちらにしても戦争は二度と起こしてはならない」と強いメッセージを我々に託された。「怒りは、怒りをもってしては、ついに安らぎを得べからず 忍を行ずれば休息を得ん」(法句経)の御文が頭を過った。

 とうとうISによって日本人2人が殺害されてしまった。また、ISの遣り方を模倣し、影響を受けたとされ、川崎で少年が殺害された。殺伐とした事件が多発している。

 終戦70年。今こそ本門佛立宗として、宗門人そして仏教徒として「常盆常彼岸」の回向心を更に発揚し、「四恩報謝」の為にも、世界恒久平和を実現するためにもこうした御題目による慰霊回向を続けていくべきだと思う。