ほんもんぶつりゅうしゅう
2012年06月01日
第6回[2012年6月号]
妙本寺で、日夜修行に励まれていた日隆聖人の身に、思わぬ災いが降りかかってきます。応永十年(1403)、新たに妙本寺で得度した具覚、具円という兄弟は、当時の太政大臣(貴族で最高の役職)が父であり、その権力をバックに教えを曲げ、規律を破り、やりたい放題。日隆聖人とすべてにわたって対立することになります。

門祖日隆聖人物語 第6回

月明への折伏

 日隆聖人が妙本寺に入られた翌年の8月18日、太政大臣という位であった三条実冬(さねふゆ)公の四男が妙本寺で得度、具覚と名づけられ、同時に得度した弟も具円と呼よばれます。当時は、天皇や貴族、室町将軍家などでは、長男以外の男子は、養子に行くか、有名な寺院に入り、その跡継ぎになることが多かったんだよ。妙本寺は、二世住職の大覚大僧正の時に公許(公にご弘通を認められる)を得て、お寺は大いに発展するんだ。しかも、大覚大僧正が後醍醐天皇の皇子であったとの言い伝えもあるくらいだから、京都でも有名なお寺の一つになったんだね。

 そしてその年の12月12日、妙本寺第四世住職の日霽上人は、得度して間もない18歳の具覚を跡取に指名して引退されるんだ。

三度の出寺(しゅつじ)

 具覚は、丹波国(たんばのくに)(現在の兵庫県中央部に京都府と大阪府の一部を加えた地域)に大きな領地を持ち、手下に武士を二十五人も連れてお寺に来きたんだよ。それが住職となり、師匠の日霽上人が応永十二年に亡くなると、「月明」と名乗るんだ。これは実は大変なことなんだよ。

 日蓮大聖人の教えを引き継ぐお導師は、必ず「日」を付けて名乗るのが慣わしになっている。それは今でも続いているんだ。これは、日蓮大聖人の教えを引き継いできた、日蓮大聖人の弟子であるという標(しるし)でもあるんだ。それを、勝手に「月」の字を付けたんだから、それは大問題になったんだよ。そして、ただ名前を変えただけでなく、教えも日蓮大聖人が弘められた法華経本門の教えから、当時流行していた中古天台という教えに変えてしまったんだ。

月明を折伏する日存、日道両聖人と若き日隆聖人
月明を折伏する日存、日道両聖人と若き日隆聖人

 日隆聖人は、日存、日道両聖人とともに元の教えに戻るように、また名を変えるように折伏される。月明もしぶしぶ「日明」と改めるんだが、これが長続きしない、そしてとうとう日存、日道両聖人と日隆聖人ほか七人が妙本寺を出て、お寺の外で日蓮大聖人の正しい教えを弘められることになるんだ。

その後、日存、日道両聖人と日隆聖人は、応永13年にひとまず妙本寺にお戻りになり、月明を折伏されるが聞き入れてもらえず、応永17年に2度目の出寺をされる。

 ところが月明は有力な公家に取り入り、後小松上皇に「僧正」という長年修行しないと授からない位を貰えるように願い出るんだ。そしてとうとう28歳の若さで僧正になる。そうすると、比叡山延暦寺の僧侶や信徒が怒り、妙本寺を壊してしまうという乱暴をする。この妙本寺の危機に際し、応永21年、日存、日道両聖人は妙本寺に戻って寺院の再建に取り組むことになり、24年には日隆聖人も戻られるんだよ。しかし、あいかわらず月明は改めない。そしてとうとう応永25年、日存、日道両聖人と日隆聖人始20余人は、3回目の出寺を決行、妙本寺にはこれ以後お 戻りにならなかったんだ。


第6回[2012年6月号]