ほんもんぶつりゅうしゅう
2012年05月01日
第5回[2012年5月号]
 お祖師さまのご入滅の折、帝都・京の弘通を命じられたのが経一麿(日像聖人)。この日像聖人が京都に最初に建てたお寺が妙顕寺(妙本寺)。門祖聖人はこのお寺に入寺し修行に励まれるんだけど、今回はその妙本寺の歴史について見てみよう。

門祖日隆聖人物語 第5回

「日像聖人」について

 門祖日隆聖人が修行のためにやって来た京都の妙本寺というお寺は、「日像聖人」というお方が建られたお寺なんだ。

 「日像聖人」というお方は、お祖師さま(日蓮聖人)がお亡なりになる時は、まだ12歳で、経一麿というお名前だったんだよ。この経一麿少年は、お祖師さまから枕元に直々に呼ばれ、「帝都(京都)に御題目を弘めなさい」と命じられたんだ。

経一麿に帝都弘通が命じられる
経一麿に帝都弘通が命じられる

 まだ幼かった経一麿少年は、お祖師さまが亡くなられた後、日朗聖人(お祖師さまの六大弟子の一人)のお弟子となり修行に励まれるんだ。成長されるに伴ない「日像」とお名前を変えられ、25歳の時、お祖師さまからのご命令を実現するために、上洛(京都に入る)を決意されるんだ。

 京都に入った「日像聖人」は、都の大路に立って多くの人々に法を説かれたんだ。すると次第に日像聖人の御説法を聞いて御題目をお唱えするご信者が増えていったんだ。しかし、それが他の宗派からの嫉みとなり、いろいろな妨害を受けることになるんだ。【三黜三赦】(さんちつさんしゃ)といって「三度、京都を追放されたり、許されたり」と日像聖人は大変なご苦労をされるんだ。

 さまざまなご法難の末、日像聖人はついに京都で御題目を弘めてもよいという勅許(天皇のお許し)をいただくんだよ。そして、京都に御題目を弘めるための最初の道場「妙顕寺」を建てられたんだ。

妙本寺の歴史

 日像聖人が建てられた「妙顕寺」を中心として、御題目は京都の町中に弘まっていくんだ。

 そして、日像聖人(初代住職)がお亡くなりになった後も、大覚大僧正(第二世住職)、朗源和尚(第三世住職)、日霽聖人(第四世住職)と妙顕寺のお住職は受け継がれていったんだ。

 妙顕寺のお住職が第四世日霽聖人の時、お寺は益々発展したんだけど、それが他宗や比叡山延暦寺の怒りや嫉みをかい、妙顕寺は破却(こわす。めちゃめちゃにする)されてしまうんだよ。日霽聖人は仕方なく若狭(福井県)の小浜に避難されるんだ。

 それから六年後の明徳四年(1393)、日霽聖人は京都に戻られお寺を復興されたんだ。だけど比叡山側は未だ「妙顕寺」の再興を嫌がり、再び「妙顕寺」を破却するおそれがあったんだ。そのため「妙顕寺」と名乗ることができず、やむなく「妙本寺」と名前を変えることにしたんだ。

 この「妙本寺」が、門祖聖人の入寺されたお寺なんだ。門祖聖人が上洛して入寺された頃が丁度そんな時期だったんだ。

み教えの系譜
み教えの系譜


第5回[2012年5月号]