ほんもんぶつりゅうしゅう
2012年02月01日
第2回[2012年2月号]
日本が南北の朝廷に分かれて争った十四世紀。鎌倉時代末期から室町時代初期の南北朝時代。今月は、門祖日隆聖人のご実家である桃井家 の人々が、その中でいかに生きてきたかをお話しします。

門祖日隆聖人物語 第2回

桃井家とその時代

 門祖日隆聖人のご実家、桃井(もものい)家は、清和源氏足利義兼(よしかね)の血筋を引く武家の名門で、上野国(こうずけのくに)群馬郡桃井郷(ぐんまぐんもものいごう)という土地を領土としたので桃井氏と呼んだのが始まりなんだ。

 源氏の中でも、足利、新田に次ぐ名門の一族なんだよ。

 桃井の本家である尚義(ひさよし)公は、新田義貞が鎌倉幕府へ争いを起こしたのに従い、各地で戦った。しかし、越前藤島の戦い(延元三年、一三三八)で義貞と共に戦死するんだ。

 桃井の分家となる直常(ただつね)公は、足利の味方となり「鬼」と畏れられた武将で大きな手柄を立て、越中(富山県)の国を任される(一三四四~一三五一)。やがて足利尊氏と直義の兄弟間の戦い・観応の擾乱(じょうらん)(一三四九~五一)では直義の味方となり、直義死後は南朝方の有力な武将として各地で戦うことになる。しかし、応安四年(一三七一)幕府方の斯波(しば)、富樫の軍と越中五位荘(えっちゅうごいしょう)(現在の富山県高岡市)で戦い、破れて直常公と、弟の直信公の行方はわからなくなるんだ。

 桃井家以後に越中守護となった斯波義将(しばよしまさ)公は、桃井家とは親戚関係で、観応擾乱までは共に戦った味方同士ということもあり、娘の益子(とみこ)様を桃井家に嫁がせ(永徳元年、一三八一)、これにより桃井家との戦いを終わりにしたんだな。

桃井家最後の戦場
桃井家最後の戦場

 門祖聖人は、至徳二年(一三八五)父桃井尚儀(ひさのり)公、母益子様の長男としてご誕生。弟の直之(ただゆき)は、出家して真宗西本願寺派は光明寺住職となり、父尚儀公は引退して「本光」と名乗ることになる。南北朝争乱の時代に、武士として活躍した桃井家だったんだが、尚儀公は、敢えて武士として生きる事をせずに、一族が仏門に入ることで、桃井家に関わる人々と、桃井家と戦い犠牲となった人々のご回向をされたんだよ。

 日本が南北の朝廷に分かれて争った十四世紀。鎌倉時代末期から室町時代初期の南北朝時代。今月は、門祖日隆聖人のご実家である桃井家の人々が、その中でいかに生きてきたかをお話しします。



第3回[2012年2月号]