日蓮聖人のお手紙を通して学ぶ佛立信者のご信心と人生

日蓮大士ご降誕800年記念シリーズ  日蓮聖人のお手紙を通して学ぶ 佛立信者のご信心と人生 その2 光日尼へのご消息

光日尼は日蓮聖人の生国、房州天津の人で、聖人とは幼少より交際があったようです。

 日蓮聖人に帰依し、上行所伝の御題目を受持するようになったのはかなり後年でしかも先に入信したのは息子の弥四郎でした。

 日蓮聖人が立教開宗の後、鎌倉にお出ましになってご弘通活動にいそしんでおられた頃、聖人はご説法中、聴衆の中に見おぼえのある青年を見いだされました。聖人はその青年の立ち居振る舞いに好印象を懐かれたようで、ご法門が終ったにのちお言葉をかけようと思われました。が聖人がお言葉をかける暇もないまま青年は法座を退出し姿が見えなくなっていました。

 ところが後日、思いがけず青年のほうから使いをよこし、日蓮聖人に面会を求めてきたのです。それは「私は弥四郎と申し、安房の国(千葉県)天津の出身の者ですが、幼少の頃より聖人のお人柄を慕っておりました。私の母もまた聖人のことを存じあげ、疎略に申しておりません。先般、聖人のご法門を聴聞させていただきましたが、一度個人的にお目にかかり内密にご相談申し上げたいことがございます」というものでした。

 こうして聖人を訪れた弥四郎は、こまごまと今までのことや行末のことなどを語った後、おもむろに自身の悩みを聖人に吐露しました。それは「わたしは武士の身であり、将来、やむを得ない事情から刀を抜かねばならないことが起るかもしれません。覚悟はしておりますが、罪を背負って後生へおもむくことはなんとも不安です。父はすでにこの世に亡く、わたしが死ねば母を1人残すことになり、なんとも心苦しく思っております。そのようなことになった時はどうか母を聖人のお弟子の末席にお加え下さり、仏道にお導き下さい」というものでした。

 こうして弥四郎は入信し、母である光日尼を教化し、母子で信行に励む人となっていきます。弥四郎本人が危惧していた事態も起らず約20年の歳月が過ぎた建治2年の春、突然、母の光日尼から我が子、弥四郎の死の報が日蓮聖人のもとにもたらされたのです。

 以下、この報を受けた日蓮聖人が光日尼に与えられたご消息(お手紙)の数節をご紹介しましょう。

 「この御文を給びて、心あらず急ぎ急ぎひらきて見そうらえば、おととしの6月の8日に、弥四郎に(おくれ)たりと書かれたり。御文も開かざりつるまではうれしくてありつるが、今この詞を読みてこそ、何しか急ぎ開きけん。浦島が子の箱なれや、あけて悔しきものかな。・・・・主の別れ、親の別れ、夫婦の別れ、いずれかおろかなるべきなれども、主はまた他の主もありぬべし。夫婦はまたかわりぬれば、心を休むる事もありなん。親子の別れこそ月日の隔つるままにいよいよ歎き深りぬべく見えそうらえ。親子の別れにも、親は往きて子の留まるは、同じ無常なれども理にもや。老いたる母は留まりて、若き子の先に立つ、情けなき事なれば、神も仏も恨めしや。」

(佛立宗版 御妙判集3巻9192頁)

 このご消息の5年後に光日尼に与えられたご消息の末尾には次のような御文も拝見できます。

 「光日上人は子を思うあまりに、法華経の行者と成り給う。母と子とともに霊山浄土へ参り給うべし。その時御対面いかにうれしかるべき。いかにうれしかるべき。」

(佛立宗版 御妙判集3巻106頁)

 私たちはこうしたご消息を通して日蓮聖人の信徒へのご慈愛の深さをうかがい知ることができるのです。