ほんもんぶつりゅうしゅう

2014-04-15 20:26

スリランカ団参記 床並登彰師

平成二十五年十一月六日から十三日まで、御導師様のお徳分をいただきまして、スリランカ開教十五周年記念の団参へ行ってまいりました。当山からの参加者は、西田登光師・桑名喜久枝姉・吉村幸子姉・井上恭子姉・朝位祐子姉と小生の六名でした。関西空港から空路六時間でシンガポールへ入り五時間のトランジットを経て空路三時間半でスリランカの首都コロンボへ。前日朝六時、フェリーで泉大津の港に着いてから二十四時間の移動を経てホテル到着。スタートから大変ハードなスケジュールでしたが、当山からの参加者六名全員が、期間中、体調を崩すこともなく元気でご奉公させていただきました。以下、今回を含め三回にわたってスリランカ団参の感想を記しますが、今回はまず前置きを述べておきたいと思います。

 

 一つは、スリランカへ着いて二~三日後、少し風土や人に触れて町の様子を見て思ったことです。それは「本当の豊かさって何だろう?」という素朴な疑問でした。

 

 もう一つの前置きは、行く前に抱いていたスリランカのイメージに関することです。スリランカは伝統的な仏教国ですが、北伝仏教と呼ばれる日本の仏教(大乗仏教)に対して、南伝仏教と呼ばれるスリランカは上座部仏教で小乗仏教国であるというイメージです。スリランカが伝統的仏教国であるという印象が強かったのは、次のエピソードが私の脳裏にあったからかもしれません。私たち日本人にとって非常に大事で印象的なエピソードですので今回は以下、それに紙面を割きたいと思います。

 

 一九五一年(昭和二十六年)九月六日、サンフランシスコ講和会議において戦勝国の連合軍は敗戦国日本に対して厳しい制裁措置と賠償を求めました。席上、出席者の中で最も弱く小さな島、セイロン(現スリランカ)の政府代表団団長・ジャヤワルダナ大蔵大臣(後のスリランカ大統領)は、先進戦勝国を含む参加国に向かって、「我が国はそうしようとは思いません(日本に制裁・賠償を要求しようとは思わない)。なぜなら我々は仏陀の言葉を信じていますから。『人は憎しみによって憎しみを越えられない。ただ愛によってのみ憎しみを超えられる。実にこの世においては怨みに報いるに怨みを以てしたならばついに怨みの恩(めぐ)むことがない。怨みを捨ててこそ恩(めぐ)む。これは永遠の真理である。』仏陀のこの言葉はアジアの数え切れないほどの人々の生涯を高尚にしました。」と述べました。それに続けて、北伝仏教と南伝仏教の相違はあっても日本とセイロン(スリランカ)は長い間、仏教という共通の文化で結びついており、この共通文化は今も尚、存続している、と語ったのです。そして、ソ連の提案する米英中ソによる日本国土の分割統治案に強く反対を表明して、各国に対し、日本をあらゆる制約を受けない自由で独立した国家として認めて欲しいと主張して、先頭を切って対日賠償請求権を放棄したのです。

 

 このエピソードは、スリランカが古くからの敬虔(けいけん)な仏教国であることを物語っています。おそらく、スリランカの人やその精神的風土は、このような仏教的土壌によって育まれたのでしょう。なぜなら、今回のスリランカ団参を終えて私は、現証布教による海外弘通の現場を目の当たりにして法華経本門八品上行所伝の御題目の素晴らしさに改めて感動したことは勿論ですが、同時に、仏教って素晴らしいなあ、と心から強く思ったからです。

 

 先の仏陀の言葉の中の「恩む(めぐむ)」は、「おん(恩)」とも読みます。

今日の日本の平和と繁栄を思うとき(少なくとも日本本土は分裂してはいません)、本門佛立宗の最近のスリランカ弘通は、今度は日本が仏教でもって六〇年前の恩返しをしているように感じるのは私だけでしょうか。

 

 次回は、開教十五周年記念法要、及びスリランカのご信者との触れ合いを通して感じた仏教の素晴らしさ、中でも大乗仏教の素晴らしさについて。そして、三回目は、大乗仏教の中でも実大乗(実教・真実の大乗)である法華経本門八品上行所伝の御題目の有り難さ――スリランカの現証布教――について報告させていただく予定です。

語っています。おそらく、スリランカの人やその精神的風土は、このような仏教的土壌によって育まれたのでしょう。なぜなら、今回のスリランカ団参を終えて私は、現証布教による海外弘通の現場を目の当たりにして法華経本門八品上行所伝の御題目の素晴らしさに改めて感動したことは勿論ですが、同時に、仏教って素晴らしいなあ、と心から強く思ったからです。

 

 先の仏陀の言葉の中の「恩む(めぐむ)」は、「おん(恩)」とも読みます。

今日の日本の平和と繁栄を思うとき(少なくとも日本本土は分裂してはいません)、本門佛立宗の最近のスリランカ弘通は、今度は日本が仏教でもって六〇年前の恩返しをしているように感じるのは私だけでしょうか。

 

 次回は、開教十五周年記念法要、及びスリランカのご信者との触れ合いを通して感じた仏教の素晴らしさ、中でも大乗仏教の素晴らしさについて。そして、三回目は、大乗仏教の中でも実大乗(実教・真実の大乗)である法華経本門八品上行所伝の御題目の有り難さ――スリランカの現証布教――について報告させていただく予定です。